芝田商店街の歴史

中世までの芝田

現在の芝田町が位置する場所は、大阪の中心である「梅田」地域の範疇に属し、かつて、「北野」と呼ばれた場所でもあります。

大阪・北野の歴史はつとに古く、仁徳天皇の時代にまで遡ることができるようです。
古い地名としては、「日本書紀」に、「兎我野(とがの)」が見られます。仁徳天皇が皇后とともに高台にのぼって涼を入れ、夜毎、この兎我野の鹿の音を愛でた、と書かれています。兎我野は、梅田や北野に隣接する場所です。

その頃、大阪湾は、この一帯のすぐ傍にありました。
上古の大阪の歴史は埋め立ての歴史でもあるのですが、北野や兎我野に隣接する「曾根崎村」は、かつて、「曾根洲」と呼ばれる臨海の地であり、次第に土砂が積もって「曾根の里」となり、やがて「曾根崎」と呼ばれるようになりました。

「北野」の地名は、9世紀半ばに生まれたと言われています。梅田も北野も、早くから発達した曾根崎村の北に位置するのですが、こちらの発展は遅く、18世紀半ば、梅田道が拓かれたものの、周辺は田畑ばかりの寂しい土地でした。
当時は、都心部であった曾根崎村の人たちが出かけ、花を賞し、観月を楽しむ憩いの地であったようです。一面、菜の花畑がひろがっていたということが、古文書によって確認されています。

もっとも、現在でこそ大阪の中心地である梅田ですが、近世では「下原」と呼ばれる低湿地帯があるのみで、このあたりは、泥土を埋め立てて田畑地を拓いたことから「埋田」と呼ばれていました。のちに「梅田」と好字化されるのですが、これは、この地の産土神である綱敷天神社や露天神社に縁のある梅の字を充てたものと言われています。

江戸時代の芝田〜現在の原型「市」の誕生

近世もくだり幕末になる頃、大坂(大阪)の青菜流通は、三大市場のひとつである天満青物市場を中心に展開されていました。その、天満青物市場の問屋仲間が主導権をとり、市中の市場を独占していたと言われています。そんななか、近在の農村が台頭し、直売買を開始、市場を独占していた問屋と農村が対立するようになるのですが、やがて、幕末期には、近在農村の立売場設置が認められるようになり、市が立つようになります。このときの市が、現在の芝田に立ち並ぶ商店のルーツと言えます。

現代に連なる芝田の街並の移り変わり

やがて明治を迎え、明治7年、大阪-神戸間に鉄道が開通し、この年が、大阪市が近代都市として大発展するスタートとなりました。明治9年、大阪-神戸間に続いて大阪-京都間が開通、京阪神が結ばれ、同10年には天皇陛下をお迎えしての開業式も執り行われました。 明治39年の阪神電気鉄道(阪神電鉄)乗り入れ、明治43年の箕面有馬電気軌道(阪急電鉄)開業など、埋田一帯は、鉄道の発達とともに飛躍的な発展を遂げることになります。

北野村の字名であった「芝田」が、いつ頃からそのように呼ばれていたのかは、定かではありません。 明治22年に市制を敷いた大阪市は周辺村を合併し、明治30年、西成郡北野村字芝田と呼ばれていた現在の芝田は大阪市北区に編入され、明治33年の町名設定に伴い、北野芝田町に改正されました。その後、大正13年6月1日の町名改正で北野の文字が省略され、芝田町と改められました。現在では、北野の呼称は、北野病院や北野高校などにわずかに残るのみで、字名でしかなった芝田は町名となって現在まで受け継がれています。

芝田町には西善寺が現存していますが、この寺は西本願寺の末寺で、寛永11年4月の建立。当初は南森町に建てられていたのですが、明治42年に焼失、大正2年の再建の際、南森町から芝田町の現在の地に移転しました。

明治42年、いわゆる北区の大火が発生し、天満、堀川、梅田新道、堂島、福島を火の海とし、警察、消防のみならず、陸軍までもが出動しての消火活動を余儀なくされるほどでした。主な焼失建物だけでも50を数え、陸軍の出動兵力だけでも3300人を超えたと言われています。

芝田町の北端には済生会病院が所在しています。この病院は、明治44年2月紀元節に際して、明治天皇が桂首相を召し、施薬救療の資金として150万円を下賜されたことに端を発しています。同年5月、この下賜金に篤志家からの募金を加えて、財団法人済生会が設けられ、大阪府は、市内3ヶ所に診療所を開設。これが現在地に移転されたのは昭和10年で、府立北野中学の跡地が利用されました。

また、北野は学園に適した土地柄でもあり、北野中学が、明治35年、堂島から芝田町の現在の済生会病院の位置に移り、堂島中学校から北野中学校と改称され、昭和6年に、芝田町から十三の現在地に移転し、1948年、学制改革により府立北野高校として開校しています。ほか、現在の大手前高校の前身である府立梅田高等女学校、大阪大学の前身である都島工業高校などが、かつての北野にはありました。

芝田商店会は、現在の阪急梅田駅の北側に位置しますが、この一帯には、阪急関係を主とする建築物が連なっています。
いわゆる大阪ミナミは大阪古来のエネルギッシュなパワーに満ち溢れていますが、翻って、梅田を中心とするキタは、どちらかというと、クールでファッショナブルなイメージに包まれており、「阪急村」を中心に、いつの時代も新奇な流行や文化を求める若者の心を捕らえて離しません。

再開発を控え、ますます繁栄する芝田

現在、大阪駅北地区(通称・大阪北ヤード)では日本でも有数の大規模な開発が進んでおり、2011年には、新たな装いで街がオープンします。それに伴い、大阪駅の改良工事、大阪駅北ビルの建て替え、新たな百貨店の進出、また駅南側でも阪急百貨店、梅田大丸店の増床や中央郵便局の建替えなど、ここ数年で、芝田を含むを周辺環境は大きく様変わりします。
100余年ほどまえには一面の菜の花畑だったこの地も、時代を経て、21世紀、関西の中心地としての賑わいを見せ、情報を発信していくことでしょう。